Festival de la Leyenda Vallenata 2010
当時の私のなぐさめはラファエル・エスカローナからかかってくる電話だった。彼は、当時そこらじゅうで歌われ、今も歌いつがれる歌(バジェナート)の作曲家である。そのころバランキージャは活気の中心だった。というのも、アコーディオンをもったフグラーレス(吟遊詩人たち)がひんぱんに訪れたからだ。私たちも、彼らのことを、アラカタカでのお祭りや、当時カリブ海沿岸でラジオ放送を通じてその評判が広まっていたことで、よく知っていたのだ。大好きなこの音楽(バジェナート)にかける情熱の頂点は、ある日、私が“La Jirafa”を執筆している最中にかかってきた電話とともにやってきた。電話の声は、私の子どものころの知っていた人たちと同じ調子で、形式ばったあいさつもなしに、いきなりいった。“Quihubo, hermano, Soy Rafael Escalona.”(よう、兄弟、オレだよ、ラファエル・エスカローナだよ)
・・・これは嘘偽りのない話しだが、突拍子もないことがごく自然に起きるような地域や職業集団の中ではめずらしいことではない。アコーディオンは、コロンビアで生まれた楽器ではないし、コロンビアのどこでも一般的な楽器というわけでもないが、バジェドゥパルのあたりではとても人気がある。おそらくアルバかキュラソーからもたらされたのだろう。第二次世界大戦中、ドイツからの輸入がストップしたが、すでにこの地にあった楽器は、地元の持ち主が注意ぶかく整備したおかげでいきのびることができた。そうした人々のうちのひとりが、レアンドロ・ディアスだった。大工の彼は、天才的な作曲家、アコーディオンの名人であるのみならず、生まれつき目がみえないのに戦争中にアコーディオンを修理することができた唯一の人物だった。こうしたフグラーレス(吟遊詩人たち)は、気の利いた小話や日常のささいな出来事を題材を歌にして、町から町へとわたりあるく人生を送った。彼らが歌う場は、宗教的なお祭りや、異端の集まりだったりしたのだが、なんといってもカーニバルのドンちゃん騒ぎだった。
その点、ラファエル・エスカローナはちがっていた。クレメンテ・エスカローナ大佐の息子で、著名なセレドン司祭の甥である彼は、現在は彼の名前を冠しているサンタ・マルタの中等学校でバチジェラートを修了していた。だから、彼は、子どものころから一族のスキャンダルだった。というのも、アコーディオンにあわせて歌うのは、修理工のような仕事とされていたからだ。彼はフグラーレスの中では唯一のバチジェラート修了者であるばかりでなく、数少ない読み書きのできる人物であり、もっとも誇り高く、さらに、かつてないほどの気の多い男だった。 (Vivir para contarla, 翻訳 by Genichi Yamaguchi)
- 作者: ガブリエル・ガルシア=マルケス,旦敬介
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/10/31
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昨日開幕した第43回バジェナート伝説フェスティバル。プロモーションビデオでは、昨年のプロ部門、アマチュア部門、青年部門、少年部門のチャンピオンがそれぞれ挨拶をする。最後の子どもは寝ぐせのママだw
今年はもちろんエスカローナ追悼ということだが、ちょっとした異変が起きている。今年はプージャがないか、あるいはあっても評価の対象にならないらしいのだ(いろいろ読んでもよくわからない。)。
Acordeoneros no se podrán ‘lucir’ con una puya de Escalona (El País Vallenato)
要するにエスカローナの作品にプージャがないから、ということらしい。いわれてみりゃそうだな。これはたぶん彼が楽器がまったくできなかった〜少なくとも同世代のバジェナートの作曲家のほとんどはアコーディオン奏者である〜ことと関係しているのだろう。
とすると、今年は超絶テクのヘビメタ少年みたいな人は不利ということになる。
いずれにせよ、ギターで弾き語りをしてもいいくらいの曲がおおいエスカローナの作品で、アコーディオンが映えるというと、普通に思い浮かべるのは“El Chevrolito”“La Vieja Sara”“La despedida”“ La Creciente Del Cesar”といったところだが、今年はぜひ、こんな曲をあんな風に、というのを聴かせてほしい。
(腹ペコ学園&サラおばさん&空に浮かぶ家&遺言&ハイメ・モリーナ)
Salgo de Santa Marta サンタマルタをでて
Cojo el trén en la estación 駅で汽車にのって
Paso por la zona la tierra e'los platanales バナナ農園を抜けて
Y al llegar a Fundación, sigo en carro para el Valle フンダシオンにつくと自動車でバジェにむかう
Con esta noticia le fueron a mi mamá 学校をやめたって知らせとともにママのもとに届いたのは
Que yo de lo flaco ya me parecía un fideo ガリガリにやせて骨と皮になったこのおれ
Y es el hambre del liceo 学校じゃ腹を空かせてばかりで
que no me deja engorda すっかり痩せちまった
Qué tiene Escalona, qué tiene ese muchacho? エスカローナはどうしちゃったんだ?
Dicen las personas cuando lo ven tan flaco こんなにガリガリになってしまったおれをみてみんながいう
Pero es que no saben el hambre que se pasa みんな知らないんだ どんなにおれが腹を空かせていたか
Cuando un vallenato se sale de su casa このバジェナートが家を出てから何があったのか
ちなみにコロンビア人に普通に“Valle”というと、それは“Valle del Cauca”になるが、ここでは“Valledupar”のこと。
Tengo que hacerle a la vieja Sara una visita que le ofrecí サラおばさんを招待しなきゃ
pa' que no diga de mi que yo la tengo olvidada オレが彼女のことを忘れているなんていわせないために
También le llevo su regalito un corte blanco con su collar 彼女のために首飾りと白い布をもってきたよ
pa' que haga un traje bonito y flequetee por El Plan 彼女がきれいな服をつくってエル・プラン村で??するために
Para que diga este regalo そのプレゼントは
se lo hizo un compadre de su hijo Emiliano. 彼女の息子、エミリアーノのコンパードレからだっていってもらわなきゃ
Amigo de ella también que se llama Rafael 彼女の友だちのラファエルのプレゼントだって
「サラ」はサラ・マリア・バケーロ。エスカローナの親友だったエミリアーノ・スレータの母で、エル・プラン村で助産婦をしていた。サンコーチョ(コロンビアの郷土料理)に招かれたのにすっぽかしたエスカローナは、サラおばさんの怒りを買い、おわびにプレゼントをもっていくはめになった。1947年の作品。
サラの子ども、孫、ひ孫からは、エミリアーノ、ポンチョ、子どもエミリアーノ、マリオ、イバン、エクトル、ココと多くのバジェナートのミュージシャンがうまれ、一族は“Dinastía Zuleta”(スレータ王朝)と呼ばれるバジェナートの一大勢力になる。
Te voy hacerte una casa en el aire お前のためだけに
solamente pa'que vivas tu. 空に浮かぶ家を作ってあげよう
Después le pongo un letrero bien grande そしたら白い雲で大きな表札を作ってあげよう
con nubes blancas que diga "Ada Luz" そこにはアダ・ルスって書いてあるんだよ
Cuando Ada Luz sea senorita アダ・ルスが年頃になって
y alguno le quiera hablar de amor 誰かが彼女に愛を語りたかったら
el tipo tiene que ser aviador そいつは飛行気乗りでなきゃならない
para que pueda hacerle la visita 飛行機乗りでないとアダ・ルスに会えないのさ
Porque el que no vuela no sube それを飛べないヤツは
a ver a Ada Luz en las nubes, 雲のなかにいるのアダ・ルスには会えないのさ
porque el que no vuela no llega allá, あそこまでたどり着けないヤツは
a ver a Ada Luz en la inmensidad. はるか彼方にいるアダ・ルスに会えないのさ
Voy a hacer mi casa en el aire おまえに空に浮かぶ家を作ってあげよう
para que no la moleste nadie. 誰もおまえにちょっかいを出さないように
エスカローナがおさない娘アダ・ルス(まんなかの小さい女の子)のためにつくった子守歌。
エスカローナに何人の子どもがいたのかは正確にはわかっていないが(ウィキペディアで確認できるのは15人)、おそらく20人以上といわれている。
ところで、アダ・ルスさんは、エスカローナが亡くなったとき、インタビューで「あなたの一番好きな歌は“La casa en en aire”ですか?」と聞かれて、思いっきり「ちがいます。“La Golondrina”です」とこたえていた。たぶんこの質問は今まで数え切れないくらいうけているだろう。
Oye morenita te vas a quedar muy sola モレニータ、キミはひとりぽっちになっちゃうよ
porque anoche dijo el radio 昨夜ラジオでいっていたよ
que abrieron el Liceo リセオがはじまったんだって
Como es estudiante そこに進学するために
ya se va Escalona エスカローナがいっちゃったんだ
pero de recuerdo te dejó un paseo でも思い出としてキミのためにパセオを残していったよ
Que te habla..."de aquel inmenso amor" それはキミにむけたこんな歌なんだ
Que llevo... "dentro del corazón" “キミへの限りない愛を、心にひめてボクはいく
y dice..."todo lo que yo siento" ボクが感じていること
que es pura..."pasión y sentimiento" それは純粋な情熱とセンティミエント
grabado con el lenguaje grato ペドロ・カストロの土地の
que tiene la tierra ´e Pedro Castro 心地よいしらべにのせて”
Adiós morenita me voy por la madrugada さよならモレニータ 夜明けとともに旅立つ
no quiero que me llores ボクはキミに泣いて欲しくない
porque me da dolor だってボクまで悲しくなっちゃうから
paso por valencia バレンシアから
cojo la sabana 草原をぬけて
Caracolicito y llego a Fundación カラコルシートからフンダシオンへ
Y entonces..."me tengo que meter" それから、のらなきゃならない
en un diablo..."al que le llaman tren" 電車とかいうすごいヤツにね
ay, que sale..."por toda la zona pasa" いろんな土地をとおって
y de tarde... "se mete a Santa Marta", 午後にはサンタマルタにつく
「リセオ」は、サンタマルタにあるリセオ・セレドンのこと。バジェドゥパルからサンタマルタにあるリセオ・セレドンに進学するラファエル・エスカローナが当時の(おおぜいいた)恋人(のうちのひとり)ヘノベバ・マンハレスにささげた別れの曲。当時バジェドゥパルにあったロペレナ中等学校は中等教育課程の前半部分〜日本でいうと中学校〜までしかなかったので、後期課程(日本の高校)にいくには、サンタマルタかバランキージャにいくしかなかった。
「ペドロ・カストロ」とは郵便通信大臣・マグダレナ・グランデ県〜現在のマグダレナ県とセサル県をあわせた地域〜の知事もつとめたこの地域の有力者。恋人・愛人、親類縁者、スポンサーの名前を歌に入れるのは田舎音楽としてのバジェナートの特徴のひとつ。ちなみに、ペドロ・カストロ自身はバジェナートが好きではなかったという。
浮気をしていたうえに、自分で勝手に進学するくせに「ボクをこんなに苦しめて」だの「ボクは死んじゃう」だの勝手な気もするが・・・とりあえず、文字の読める人すらほとんどいなかった同世代のバジェナートのミュージシャンのなかで、高校(中等教育後期課程)まで進学したエスカローナは異色の存在だった。バジェドゥパルからサンタマルタなら隣の県(当時ならおなじ県)だからたいした距離ではないけれど、本人は決死の覚悟だったみたい。1948年の作品。
“遺言”なんて歌まで歌って旅立ったエスカローナだが、その高校では金にこまって飢えに苦しみ、結局1年もたたないうちに退学してバジェドゥパルに帰っている(だからガボの「バチジェラート修了」のくだりはたぶん記憶違いだと思う。)。そのときの歌が「腹ペコ学園」。
Recuerdo que Jaime Molina, ハイメ・モリーナのことを思いだしている
cuando estaba borracho 彼は酔っぱらったときに
ponía esta condicíon こんな事を言ったっけ
que si yo moría primero el me hacía un retrato もしも君が先に死んだらおれは君のために肖像画を描いてあげよう
oooo si él se moría primero le sacaba un son もしもおれが先に死んだら君はおれのためにソンを作ってくれよって
Ahora prefiero esta condición いまその時のことを思いだして思うこと
que él me hiciera el retrato おれが彼のためにソンをつくるのではなくて
y yo no sacarle el son 彼がおれのために肖像画を描いてくれたらよかったのに
Famosas fueron sus parrandas que a ningún amigo dejaba dormir 彼のパランダは評判だった 友だちはみんなひと晩中大騒ぎ
Cuando estaba bebiendo siempre me insultaba 酒を飲みながら彼はいつもおれのことをからかった
con frases de cariño que el sabía decir 彼お得意の愛情のこもったフレーズで
Después en las piernas se me sentaba そのあといつも彼はおれを足下にすわらせると
me contaba un chiste y se ponía reir おれにチステを語って笑った
La cosa comenzó muy niño 子どもの頃からのつきあいだったんだ
Jaime Molina me enseñó a beber ハイメ・モリーナはおれに酒を教えてくれた
a donde quiera estaba él estaba conmigo 彼はどこにいてもいつもおれといっしょだった
y donde quiera estaba yo estaba con él おれはどこにいてもいつも彼といっしょだった
Y ahora me duele que el se haya ido ああ、なんて苦しいんだ 彼がいってしまうなんて
yo quedé sin Jaime y el sin Rafael おれにはハイメがいなくって 彼にはラファエルがいない
風刺画家のハイメ・モリーナは、エスカローナの一番の親友だった。
1978年に亡くなった親友のために生前の約束にしたがって作った曲。細かいことをいうようで恐縮ですが、約束では「ソン」となっていたがリズムはパセオですね。いまごろエスカローナは空のうえでハイメに肖像画を描いてもらっていることでしょう。
それではみなさん、今年のGWはバジェナートでお楽しみください。
Escalona vive en el ‘Festival de la Leyenda Vallenata’(Caracol TV)