Toca Cachaco

 コロンビアの首都・ボゴタのボチカ・セントラル地区。地方から、内戦をのがれ、あるいは仕事をもとめてやってきた人々が、他人の私有地や国有地に勝手に家をたててすむ貧しい町だ。そんな町の片隅で、油をいれるガラスのビンを足にはさんで、棒きれでたたく5歳の男の子がいた。ドラマーのようなしぐさだが、それは「みようみまね」ではなかった。家にテレビがなかったその子は、ドラマーなんてみたことがなかったからだ。テレビどころではない。電気も水道もないその子の家は、板切れでできたバラックだった。屋根や壁のすきまから、冷たい雨のしずくや風がはいりこむ小さな家に、両親と8人の兄弟姉妹が肩をよせあって住んでいた。

  
 熱心なエバンヘリコだった父は、日曜日ごとに少年を教会につれていった。音楽の才能にめぐまれた少年は、賛美歌にあわせて歌い、ギターをかなで、みんなの人気者になった。だが、ある日、ラジオからサルサボレロにまじって流れてきたアコーディオンの音色が少年の心をとらえた。少年がバジェナートにとりつかれた瞬間だった。


 少年が10歳になるころ、ウィルソンという子がちかくに引っ越してきた。バジェナートという共通の楽しみに結びつけられて、少年とウィルソンはすぐに友だちになった。いっしょに遊び、ウィルソンの父が作った蛍光灯を売りあるきながら、友情を深めた2人は、ある日、誓いあった。「ぼくは歌を歌う。ウィルソン、キミはアコーディオンだ。ぼくらはバジェナートのスターになるんだ。」貧しい生活はあいかわらずだったが、夢ができた。


 だが、どうやったらちゃんと歌えるのか、アコーディオンはどう弾くのか、さっぱり見当がつかなかった。2人は時間をみつけてはボゴタの町を歩きまわり、歌やアコーディオンや教えてくれる人をたずねてまわったが、みつからなかった。今でこそコロンビアを代表する音楽として知られるバジェナートも、当時はまだ「コスタ(大西洋沿岸)の田舎の下層階級の音楽」という偏見にさらされており、首都で聞く人は少なかったのだ。だが、少年はあきらめきれなかった。アレホ・ドゥランのように、ルイス・エンリケ・マルティネスのように歌いたい。コラーチョ・メンドーサのように、エミリアーノ・スレータのようにアコーディオンを弾きたい。そんな気持ちはおおきくなっていく一方だった。


 13歳になるころ、いてもたってもいられなくなった少年は決心した。そうだ、ラ・グアヒーラにいこう。バジェナートの生まれた地に。あそこにいけば、ボクたちだって、きっとバジェナートができるようになるよ。はたからみれば、こっけいな思いつきかも知れないが、少年はおおまじめだった。行った先で仕事をするために父の水道工事用の工具を持ち出してカバンにつめると、ウィルソンをさそって、家を出て、ベルリーナス・デル・フォンセのバスに乗り込んだ。
 だが、それは夢にむけての旅立ちにすらならなかった。10数時間後、バスがブカラマンガについたところで、2人の家出少年は、警察官につかまってしまったのだ。そのままボゴタへ向かうバスへ乗せられて、少年の冒険はあっけなく終わった。


 だが、少年は夢をあきらめなかった。工事現場で日雇いの仕事をつづけながら、20歳で初めて中古のアコーディオンを買うと、歌手からアコーディオン奏者に目標をかえ、盛り場の流しやスタジオミュージシャンをして腕を磨いた。
 1992年には初めて伝説フェスティバルに参加。「カチャーコ*1なんかにバジェナートができるもんか」といわれながら挑戦しつづけること12回。そして13度目の2006年、ついに彼は重い扉をこじ開けた。セルヒオ・ルイス、マヌエル・フリアンといった今をときめく若手の人気アコーディオン奏者をおさえて、34人目の、そしてカチャーコ初のバジェナート王に選ばれたのだ。


 かつての少年・アルベルト“ベト”ハマイカは、今年44歳。バジェナート王の称号をえた彼は、今もホームタウンのボゴタで貧しい人々のためにアコーディオンを弾き続けている。

“ Toca cachaco, que tú sabes tocar. Tú tocas el vallenato, vallenato de verdad.”(カチャーコ、弾いてみろ、おまえのバジャナートを。おまえには弾けるんだ、本物のバジェナートを。)

*1:コロンビアのスラングで「ボゴタっ子」