Alicia Adorada〜愛しのアリシア

  

フアンチョ・ポロ・バレンシアが最後にパランダをしたアラカタカの町。ガルシア・マルケスの生地として知られるこの寒村をおとずれた多くのフグラーレスの奏でたバジェナートは、小説家のインスピレーションの源泉になっています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aracataca http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/

 1942年の夏のある日、とあるコスタ(コロンビアの大西洋岸地方)の田舎町で行われたパランダにでかけた若い農夫は、異様な光景に思わず息をのみました。アコーディオンを奏でながら、死んだ妻の名まえを叫ぶように歌いつづける、ひとりの男。しかも、その男は、歌いながら、目からはポロポロと涙を流しているのです。
 集まった人々は、酒をのみながらおしゃべりに興じ、男の様子にはあまり目もくれていない様子です。だが、歌とアコーディオンの腕に自信をもちはじめ、プロのミュージシャンになろうと思い始めていた農夫は、力強いリズムと、ほとばしるような熱気があふれたその男の歌とアコーディオンに、すっかり打ちのめされ、ぐいぐいと引き込まれていくのを感じていました。

Como Dios en la tierra no tiene amigos  この世に友だちががいなかったイエス様のように
como uno no tiene amigos anda en el aire  空を飛んでいくヤツに友だちがいないように


Tanto le pido y le pido ay hombe  こんなにオレが頼んでいるのに
siempre me manda mis males  なんてこった、おまえはいつもオレに悪い気分しか与えてくれない


Ay pobre mi Alicia, Alicia adorada  かわいそうなオレのアリシア、愛しいアリシア
yo te recuerdo en todas mis parrandas  パランダの度におまえのことを思い出す


Allá en flores de María  フローレス・デ・マリアの町では
donde to´el mundo me quiere  みんなオレのことが大好きなんだ


Yo reparo a las mujeres, ay hombe  何人もの女で 埋め合わせてみようとしたけれども
y no veo a Alicia la mía  オレのアリシアはみつからねえ


Donde to’el mundo me quiere  みんながオレのことを大好きな土地で
Alicia murió sólita  アリシアはひとりぼっちで死んでいった


dondequiera que uno muere ay hombe  どこでも人が死んだら
toa’las tierras son benditas  神様にお祈りぐらいはしてくれるものなのに


Alicia mi compañera que dolor  アリシア、オレの女房、なんて苦しいんだ
Alicia mi compañera que tristeza  アリシア、オレのつれあい、なんて悲しいんだ
Y solamente a Valencia, ay hombe  ああ、おまえはこのバレンシアには
el guayabo le dejó  グアジャボしか残してくれなかった


(ビデオはアレホ・ドゥラン。)


 フアンチョ・ポロ・バレンシアは、1918年9月18日、マグダレナ県のセロ・デ・サンアントニオという小さな村に生まれました。
 幼いころ近くの町・フローレス・デ・マリアにうつり、そこでパチョ・ラダの演奏を目撃。それ以来、バジェナートにとりつかれ、ミュージシャンになることを心に決めたフアンチョは、農作業のかたわらアコーディオンと歌にうちこみ、10代からフグラーレス(放浪楽師たち)の世界へとはいっていきます。


 マグダレナやセサル、ラ・グアヒーラなどで、ミュージシャンとして認められるようになったフアンチョにわが世の春が訪れたのは1940年ごろ。パランダでみかけたアリシア・カンティージョという女性にひと目ぼれ。ファンチョは、彼女と恋に落ち、生まれ故郷のセロ・デ・サンアントニオで結婚をします。約10年の放浪生活にピリオドをうち、フアンチョはすみかを持ったのでした。


 ところが、新婚気分も抜けないフアンチョが、演奏旅行から帰ってきた自宅で目にしたのは、変わり果てたアリシアの姿でした。子宮から大量に出血し、村人の介抱やかけつけた医師の治療のかいなくなくなったアリシアのお腹のなかには、ファンチョの子どもがいたといいます。フアンチョは、嘆き、悲しみ、深い失意の中から、ある歌を作りました。それが“Alicia Adorada(愛しのアリシア)”でした。


 だが、“guayabo(グアジャボ:コスタ弁で寂しい気持ち・哀愁。ブラジルの「サウダージ」のような感情)”しか残さなかったアリシアの死を、ソンのリズムにのせたこの歌は、かえって、フアンチョが悲しみから立ちなおるのを、さまたげることになったようです。アリシアの死以来、フアンチョの生活はすさんでいきます。ふたたびフグラールの生活に戻ったフアンチョは、パランダからパランダへとわたりあるき、アリシアのことを歌い、むさぼるように酒を飲み、しばしばトラブルを起こします。
 1950年代から、バジェナートが徐々に商業音楽として録音されるようになっても、その日の食事と酒、泊まる場所、そしてわずかばかりのこづかい(フアンチョはしばしば1センターボもとらずにパランダに出演したといわれています)を得るために、アコーディオンをかついで放浪生活を送るフアンチョに、レコーディングへのさそいはありませんでした。


 そんなフアンチョに、スポットライトがあったのは、1968年のことでした。1942年のパランダで衝撃を受けて以来、“Alicia Adorada”をレパートリーにしていたかつての若い農夫・アレホ・ドゥランがプロになり、この年に初めて開催された“バジェナート伝説フェスティバル”でこの歌を演奏し、初代王者になったのです。“Alicia Adorada”は、ディレクターの独断で、アレホの作曲とクレジットされてレコードになり、大ヒットしますが、アレホはすぐに「この曲は自分が作ったのではない。フアンチョ・ポロ・バレンシアという放浪の楽師こそが本当の作曲者だ」と指摘。フアンチョは一躍、作曲家として注目される存在になりました。


 何人かのプロモーターが、時の人となった彼を、コマーシャルなメディアにのるミュージシャンとして売り出そうとしました。だが、数枚のアルバムを出したものの、長年の不摂生な放浪生活がたたったのでしょうか、彼のノドやアコーディオンに、かつてアレホに衝撃を与えた輝きはありませんでした。そんなフアンチョを立ち直らせようと、アレホは「アリシアはさびしく死んだんじゃない。近くの友だちにみとられて亡くなったんだよ」と歌いましたが、酒臭い息を吐き、約束をすっぽかし、泥酔したあげくにトラブルをおこす彼の生活ぶりは、ついにあらたまらなかったのです。バジェナートに対するまなざしが「辺境の旅芸人の音楽」「田舎の貧乏人の音楽」から「コロンビアを代表する民衆音楽」へと徐々にかわり、エミリアーノ・スレータ、ルイス・エンリケ・マルティネス、レアンドロ・ディアス、ロレンソ・モラレスといった同世代のミュージシャンが伝統音楽のにない手として尊敬を集めるようになるなか、フアンチョの名は、ふたたび、人々の記憶から忘れられていくことになります。


 1978年6月22日、フアンチョは、ガルシア・マルケスの生地として有名なアラカタカのパランダに出演してから数日後、そこから少しはなれたフンダシオンという田舎町の安宿で、誰にもみとられることなく、ひっそりと息をひきとりました。まだ60歳にもなっていないのに、歯が一本残らず失われていた初老の男のなきがらの横には、飲みかけのラムの瓶と、愛用のソンブレロ・ブエルティアオがころがっていたといいます。
 現世では、ついに安らぎをみいだすことなく、さまよいつづけたフアンチョの魂は、こうしてアリシアと再びいっしょになったのでした。


 フアンチョが死んでからすでに30年以上、フンダシオンの近くの村・サンタ・ロサ・デ・リマの共同墓地にあるフアンチョの墓をおとずれる人はすでになく、生前のアリシアを知る人もほとんどいません。それでもフアンチョが歌いつづけたアリシアへのおもいは、内輪のパーティーに集まる庶民から、ホルヘ・オニャーテやジャン・カルロス・センテーノ、シルベストレ・ダンゴンのようなバジェナートのミュージシャン、さらにはカルロス・ビベスのような国際的なスターまで、今も多くのコロンビアの人々に歌われています。そしてこれからも、いつまでも、いつまでも、歌いつがれていくことでしょう。



※この歌を歌ったことのないバジェナートのミュージシャンはたぶんいないので、youtubeには多くのビデオがアップされていますが、その中から2008年のバジェナート王になったクリスティアン・カミーロを紹介します。22歳の彼がフアンチョ没後30年にあたる年の伝説フェスティバルでこの歌を取りあげるに際して、決してうまくない歌を自分で歌ったのは、ファンチョやアレホに対するオマージュもあったのかもしれません。