イゲロンの木の下で

El día en que lo iban a matar, Santiago Nasar se levantó a las 5.30 de la mañana para esperar el buque en que llegaba el obispo. Había soñado que atravesaba un bosque de higuerones donde caía una llovizna tierna, y por un instante fue feliz en el sueño, pero al despertar se sintió por completo salpicado de cagada de pájaros.“Siempre soñaba con árboles”, me dijo Plácida Linero, su madre, evocando 27 años después los pormenores de aquel lunes ingrato.
「自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、5時半に起きた。彼は、やわらかな雨が降るイゲロン樹の森を通り抜ける夢を見た。夢の中では束の間幸せを味わったものの、目が覚めたときは、身体中に鳥の糞を浴びた気がした。『あの子は、樹の夢ばかり見てましたよ』と、彼の母親、プラシダ・リネロは、27年後、あの忌わしい月曜日のことをあれこれ想い出しながら、わたしに言った。」
G・ガルシア・マルケス予告された殺人の記録野谷文昭

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

 1990年当時、カリブ最強バンドはまちがいなくビノミオ・デ・オロだった。
Binomio de Oro canta Rafael Orozco “Relicarios de Besos”

 アコーディオンと歌手を切りはなし、アコーディオンの左手をベースに移して、四つのバジェナートの伝統的なリズムをトロピカル音楽の手法で再解釈する、というのは同世代のバジェナート・ミュージシャンに共通の特徴だが、それをもっとも意識的に、かつ歌手の歌唱法もふくめて全面的にかつ大胆に推しすすめていたのが、当時の歌手のラファエル・オロスコとアコーディオン奏者のイスラエル・ロメーロのコンビ・ビノミオ・デ・オロだった。
Binomio de Oro canta Rafael Orozco “El Pollo Negro”

 この方向でそのまま進んでよかったのかは、実はよくわからない。1989年に当時トロピカル音楽を席巻していたメレンゲの帝王・ウィルフリード・バルガスのアルバム“Más que un loco”にゲスト参加したときは、完全にバルガスを食っていたビノミオだが、人材豊富で、市場規模が比べものにならないくらい大きなトロピカル音楽に、バジェナートが飲み込まれてしまうということもありえたと思う。

イスラエル・ロメーロ(I)「俺たちは常に健全なメッセージの歌を歌うようにしている。人々が愛と平和を考えて生きられるように。」
ラファエル・オロスコ(R)「人生は愛に集約する。」
I「俺たちは単なるどんちゃん騒ぎの歌や酒の歌は歌わない。“デ・フィエスタ・コン・エル・ビノミオ”にしてもコロンビア全体が暴力と困難に満ちている状況のなかで、人々に喜びと平和の道を行こうじゃないかと呼びかけているわけだ。みんながひとつのメロディに唱和するように。」
I「俺たちはプロテスト・ソングに興味はない。いまコロンビアの社会はグチャグチャに混乱している。そんなときに社会的メッセージの強い曲を歌えば、一層混乱を助長するだけだから。」
R「民衆はよけいに悲しい思いをするだろう。」
I「俺たちの音楽のなかにひとときの安らぎを見いだしてほしいんだ。」
(「ラティーナ」1991年5月号・インタビュアーは石橋純さん)

 だが、ビノミオの挑戦は、1992年に、彼らがあれほど嫌っていた暴力によって、あっけなく終わりを告げることになる。6月11日の夜、歌手のラファエル・オロスコは、バランキージャの自宅で家族や親しい友人とのパーティの最中に、ディオメデス・ディアスのバンドのメンバーふたりの訪問を受ける。楽器を貸してほしいと願い出た彼らと話すために、ラファがテラスにでたところ、暗闇から男が現れた。男は手にしたリボルバーをラファにむけて撃ちまくると、ふたたび暗闇に消えた。9発の弾丸を浴びたラファは、翌日未明、搬送先の病院で、家族に見守られながら息をひきとった。
Binomio de Oro canta Rafael Orozco “El higuerón”

No busques negra,  ああ、ネグラ、おまえがおれのことを探ささないから
que yo me muera  おれは死んでしまう
como me dejas,  おまえがおれを放っておくから
pasando penas.  おれは苦しくてたまらない


Debajo del higuerón, debajo del higuerón  あのイゲロンの木の下で
debajo del higuerón, donde siempre te esperaba.  おれはいつもおまえのことを待っていた


Allí me diste tu amor, yo también mi amor te daba あのイゲロン木の下で、おまえとおれは愛を交わしあった
llora, llora corazón, dale un consuelo a mi alma おれの心が泣いている おれの魂に安らぎをくれないか


debajo del higuerón, donde siempre te esperaba. あのイゲロンの木の下で おれはいつもおまえのことを待っていた

 「黄金の二項式」(Binomio de Oro)の一項が欠けた後、アコーディオン奏者のイスラエル・ロメーロは、二度とラファを探そうとはしなかった。正気と狂気の境目を行き来していたビノミオ・デ・オロは、1年以上の沈黙の後、ラファの座るべき席を空けたまま新しいアルバムを発売すると、やがて、すっかり好々爺のようになってしまったイスラが、ゆったりしたアコーディオンで甘い歌声をもつ若手歌手をささえる、ロマンティックなバンドへと変わっていった。以後、私の知る限り、ビノミオの路線を承継したミュージシャンはいない。
 ラファエル・オロスコがこの世を去ってから、まもなく18年。ラファの命を奪ったとされる殺し屋も、3年前の7月に、ベネズエラのマトゥリンで、警官隊と銃撃戦をくりひろげた末に射殺された。
 2007年2月に「バジェナートと植物学」というテーマでシンポジウムを開催したメデジン植物園(Jardín Botánico de Medellín)の科学部長アルバロ・コゴージョによると、この古い歌*1に出てくるイゲロンの木は、どこにあるのか誰も知らないが、これをみつけてその花を手にした者は、“el hombre más verraco de la región”(その土地でもっともドえらい男)としてたたえられるという。その花をみつけたラファは、イゲロンの木の下でもう18年も、誰かが自分をみつけてくれるのを待っている。

*1:一般にアベル・アントニオ・ビジャの作曲として知られるが、http://www.youtube.com/watch?v=rG2WtQYou5w&feature=related 最近の研究によるとセバスティアン・ゲーラというバジェドゥパルの地元のミュージシャンの作品らしい。