Lo que venga después

aquí queda todo lo que fui   ここにむかしのわたしはすべておいて
aquí empieza todo lo que soy  ここからわたしのすべてがはじまる
cuéntame como era yo  むかしのわたしはどんなだったっけ
que yo ya no recuerdo  わたしは思いださない


aquí es lo único que tengo  ここがわたしがもっているただひとつのもの
y lo único que quiero  ここがわたしののぞむただひとつのもの
ve aquel lugar de donde vengo  わたしがかつて来たところ…
yo ya ya no, ya no recuerdo  わたしはもう思いださない


y lo que venga después  これからなにが来ようと
así será y no le temo  わたしはおそれない

no me falta nada más   わたしには足りないものはなにもない
y nada me va sobrar no  わたしには余分なものはなにもない
me va sobrar no   わたしに余分なものはなにもない


dime como era yo   ねえ教えて むかしのわたしはどんなだったっけ
que yo ya no ya no ya no recuerdo  わたしはむかしをぜったいにふり返らない
ya no recuerdo   ぜったいにふり返らない

 帰るブランカ、残るマリア、そしてこれから生まれてくる新しい命*1。彼女たちの姿は、ぼくがこれまでみてきた無数のブランカであり、マリアである。
 彼女らのかかえている悩み、苦しみ、悲しみ・・・はんざつな日常と圧倒的な彼我の境遇のちがいのなかで、どこまでできたかまったく心もとないのだが、それでもそんな気持ちをすこしはわかって、いや、ほんのすこしだけでもわかろうとして、むきあってきたつもりだ。何回みても、その経験からはなれてこの映画をみることはできない。まったくの「ひとごと」と思いながらこの映画をみることはできない。
 異国で不安におびえるマリアをみていると、無数の“マリア”の顔があたまにうかび、どうしても感傷的にならざるを得なかった。ラストシーンで、静かに決意し、力強くあたらしい人生を歩みだすマリアには、心からの拍手を送らずにはいられなかった。
http://blog.livedoor.jp/stainbeck/archives/51140940.html

*1:アメリカを舞台にした映画なので生まれて来る子どもは合衆国の国籍を持つ。これがマリアが残ったひとつの理由になっているはずだ。